私が京大に行こうと思ったそもそものきっかけ

Facebookに書いたら思いのほか反響があったのでブログに加筆修正。

先日、中学時代の担任の先生が運営しているブログを見つけた。
中学時代の私は、地方の公立中で良い成績を保ち、今までの人生の中で一番勉強をしていた。試験や勉強は快感に思っていたのでまさにゲーム感覚で勉強をしていた。特に趣味といえるものもなく、部活と勉強しかやることがなかったし、今以上に非コミュで、全体を俯瞰すると特に楽しい思い出もなかった。

その担任の先生は、私に「京大に行ったら。東大もいいけど京大の方が面白いし合ってると思う」と勧めた人で、その人を含めた中学時代の先生何人かは、東大を目指せ、だの法学部行け、だの官僚になれ、色々言った。
成績においてはその時点で親を越えてしまい、進路については特に何も干渉されず、自分で決める方針をいままで取ってきた。(高卒を否定するわけでは全くないのだけど)両親とも高卒で、親としては進学校ではなく、父の母校である最寄りの高校に行かすつもりだっただろう家庭環境だけでは、東大とか京大とかを目指す発想は、絶対生まれなかっただろうなあと思う。先生たちは面白がって言っただけかもしれないけど、中学時点で「上を目指す」発想をもらったのはよかったなと思ってる。「あっ、私でも東大とか目指せるんだ」みたいな。

その時に「京大に行きたい」と具体的目標を持てたのは絶対的な善だと思うし、それがなければ浪人してまで京大を目指さなかっただろう、そしたら今の自分はないですよ。

担任の先生は当時の生徒目線からすると必ずしも全面的に評価されているわけではなかったけれど、ブログをみると、本業の傍らライフワークとして研究を続けられているようで、豊富な論考がアップされていた。この点は、自分が如何に研究に取り組めていないかを日々反省する毎日を送る私からしては、すごいなあと思った。私は仕事しながら同じようにできるだろうか?
(でも一般に中学教師って、教育者+ライトな研究者という側面があるんでしょうかね?よく知らないですが)


なんか最近、昔の自分や環境を思い出して、どうにもならないことを悔やんだり弁明したり振り返ったりしてしまう。幼少時から多様な価値観に触れたり、親子の対話が充実していたり、広い世界を見ていたら、どんなによかっただろうと。せめてインターネットができたらよかったのにと思う。
でも、閉塞感のある環境が、必然的に勉強のエネルギーを生み出し、その結果閉塞感のある環境から抜けだせたのだから皮肉である。
そんなことより、気持ちを切り替えて論文を書かないとなあ。
Twitterで知り合ったとある人から、自分と似たような境遇の人を救えたらいいよね、と言われたことを思い出す。

でも、大人になる度に新しい気づきがありますね。やっぱ大人は楽しいわ。